« いつだってタイプミス | メイン | 脱ステメモ »

<<前へメインへ次へ>>

人間は考える葦である

知らないことは不幸であり、知ることもまた不幸。
だけど、知ることは幸福で、知らないこともやはり幸福。

何かを"知らない"という事は、なんとなく損してるんだけど、
知らない事で静かな気持で暮らして行けるという幸福。
知ってしまった為に悲しんで心をいためてしまったり、
その事だけに心が囚われてしまう不幸。
知った事で、それについて考え、更に知ろうとする事で
自分自身が成長できる幸福。

何か「うわー」って事がある度に、上の様な事を考えます。
(例:食べたものの賞味期限が切れていた時、頭文字Gを見た時)

知る事と知らない事は、どっちが幸せなんだろう。
どっちの方が幸せ度の割合が高いとか、
いつも決定的な部分が見つけられず、
結局結論がでないまま、次の「うわー」に持ち越されます。

まあ、私は「知らぬが仏」って言葉、好きですけど。

例の様な場合には、永遠に仏でいたい訳です。


考えてみれば、そもそも「幸福」と「不幸」って
二つの言葉だけで考えてるから分からなくなるんじゃないか、
と思ったりもしました。

「知る事による幸福/不幸」の前段階に、
その情報を知る事がその人にとって「幸運」か「不運」かというのがあって、
知った後でのその人の考え方(「ポジティブ」か「ネガティブ」か)、
また価値観によっては、1つの情報でも全然違うものになりそうです。

例えば、いじめによる自殺のニュース。
いじめにあっている子供が、いじめによる自殺関連のニュースを知った時、

それは「幸運」か「不運」か。

今が辛くてたまらない子供は、
そのニュースに触発されて自殺を決断するとします。
子供にとっては、安息を得られる唯一の手段を
後押ししてくれたニュースを知った事
「幸福」

しかし、その先にあったかもしれない明るい未来、
まだまだ残っている人生と可能性を早くも終わらせてしまった事
「不幸」

また、残された者達の心にいつまでも残る傷「不幸」
ニュースが子供の耳に入った事はおそらく"不運"ではあったが、
どうしてしいのか分からなかった子供にとっては"幸運"だったかもしれない。
ただ、入る情報が、自殺のニュースではなく、
もっと希望を持つ事ができるニュースだったらまた違ったのかもしれない。


例えば、妻に先立たれ、ある新興宗教を知り、それにはまってしまった男性。

その男にとっては、宗教が心の拠り所になり、更に周りに仲間もできた。

ただ、その拠り所が宗教でなくてもよかったのではないか。

出会ってしまったのが「宗教」だったのが「不運」
まわりの人から言わせると、あの男は宗教にお金を吸い取られていて「不幸」
だけれど、男にとっては、法外なお布施を取られている事は「不幸」かもしれないが、
それを法外と知らない、感じない上、心が満たされている部分では「幸福」

しかし、お布施の金額が法外だと分かった所で、
男は「先の短い人生に余計なお金は不要、心が満たされていればいい」
という考えの持ち主だったらやはり「幸福」になるのかもしれない。

上に挙げた2つの例は、極端かつ私の偏見みたいなものもかなりあり、
不適切な表現も多いかもしれないけれど、
他にも沢山のパターンを考えていると「結局なんなんだろう」と思ってしまいます。
人の価値観って結構違いますもんね。(結局それかよ)

ぼんやりと思うのは、
・知る事が幸福=現実的
・知らない事が幸福=精神的
だなー、と。

「プラシーボ効果」「病は気から」等、
それらが実際に起こる事を考えると、
まさに「知らない事が幸福」というのもありだと思い知らされます。

そうなると、逆に「知る不幸」もありですね。
下手に病名などを可能性として挙げると、症状が悪化してしまう罠。

人の心は複雑です。

<<前へメインへ次へ>>

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://tokori.net/cgi/mt/mt-tb.cgi/33

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)